父の遺影となった一枚――“写真の力”を信じ続けて
東日本大震災と、写真に救われる人たち
私が「写真の力」というものをあらためて実感したのは、2011年、東日本大震災のときでした。
当時独立して3年目の私は、ボランティアで被災された家族の写真撮影を行ったり、避難所へ出張撮影に伺ったり、支援活動に関わっていました。
テレビでは、泥まみれのアルバムを拾い上げ、涙を流す人々の姿が映し出されていました。
想い出の写真は、ただの記録ではなく「家族の絆」そのものなのだと胸を打たれました。
震災発生当日は宇都宮市内でも大きな揺れがあり、まだ自宅を事務所代わりにしていた私は、自宅に急行し、どぉっと凄まじい音をたてて揺れる家の中に飛び込み、撮影機材を運び出しました。
無意識のうちに「カメラがあればなんとかなる」と思っていたことに気づき、「この仕事を天職にしなければならない」と、経験したことのない激しい揺れのなかで覚悟が定まったのを、鮮明に憶えています。
ちょうど震災前日に念願であった写真館をスタートすると決め、現像機を購入し、パートさんを雇用することも決まったばかりの出来事でもありました。
それからは、輪番停電のなかパートさんの研修とオープン準備を進め、「がんばろう日本」の想いで走り始めました。
写真家として、そして一人の人間として、「大切な人との時間を写す」ことの意味に、あらためて真剣に向き合った日々でした。
写真家としての道と、父との距離感
私が写真に興味を持ったのは、小学生の頃。妹の保育園の運動会で撮った写真を、近所の写真店の店主が大いに褒めてくれたことがきっかけでした。
しかし、学生時代は創作活動に夢中になり、自分自身の成人式の写真すら撮らずに過ごすという親不孝をしてしまいました。そのことは、今でも後悔しています。
父は、私には堅実な職業に就き、安定した道を歩んでほしいと願っていたようです。
2歳の頃に父親を亡くし、困窮する家庭で母を支えた苦労人の父には、写真家という不確かな道を進むことに対して心配も多かったのでしょう。
職業観や人生観の違いから、私たち親子はしばしば対立し、社会に出てからも少し距離がありました。
父の変化と、理解が深まった時間
そんな父との関係に、少しずつ変化が見え始めたのは、父が叙勲の栄誉を受けた頃でした。
大勢の関係者を招待した祝賀パーティーで写真撮影の傍ら映像も収録し、DVDに編集して贈りました。
父は少し照れながらも、「いい記念になった」と言ってくれました。
この出来事をきっかけに、父の中で私の仕事への理解がゆっくりと育まれていったのを感じました。
闘病と、ようやく撮れた一枚の写真
その後、父は癌を患い、長い闘病生活に入りました。ずっと臥せっていたわけではありませんが、大きな手術と転移の繰り返しでした。癌は終わりのない病とよく言われます。
写真館の業務も軌道に乗り、私は得意とする宣材写真撮影の傍ら、多くの生前遺影写真を撮るようになり、その普及啓発のため終活支援活動にも乗り出しました。
「元気なうちに写真を残すことの大切さ」をセミナーや撮影イベントで伝えてきましたが、いざ自分の父となると、病気のこともあってなかなか撮る機会を得られずにいたのです。
他方、父に終活や生前遺影の準備をさせたいと思うのは、私のエゴではないかと自らを責めることもありました。それは、私たちがしばしば直面する終活支援のジレンマでもあります。
そんなある日、ようやく撮影のチャンスが訪れました。写真を撮ってほしいと依頼を受けて実家に撮影に向かいました。父が抗がん剤治療に入る直前のことでした。
庭先にリラックスして佇む父の表情は優しく穏やかで、そのまっすぐで誠実な人柄がよく出た写真になりました。
看取りと、父とともに振り返った想い出
父はその後、大きな手術を経ていったん体調も回復し、3年ほど家族とともに時間を過ごすことができました。
しかし、その間も手術と転移を繰り返すなか、少しずつ衰弱。病魔が衰弱した身体を支配し、緩和ケアへの移行を迎えることとなりました。
亡くなる数日前に、私はこう言いました。
「この写真を遺影に使うよ」
そう言って、実家の庭で撮影したあの一枚をスマホの画面で見せたのです。
父は、静かに写真を見つめ、納得したように何度かうなずいてみせました。
終末期、痛みに耐えて体力を使い果たした父と、ゆっくり話すことはもう難しくなっていました。
私は、幼少期からのアルバムから家族の写真をピックアップしては複写、大きめにプリントアウトし、見舞いのたびに紙芝居のように見せました。
写真を懐かしそうに見返す父の表情が、忘れられません。
幼少期の写真を見返していると、両親が与えてくれた愛情や温もりが感じられます。私自身もそれらの写真から感謝の念を新たにしました。父を喜ばせるつもりが、自分自身の再生にもなったのでした。
私のアルバムの最初のページに貼ってあった写真のコピーに、父への感謝のメッセージを書いて渡しました。
私たちが帰った後で写真を見せて「息子なんだ」と嬉しそうに話していたと、看護師さんが教えてくれました。
この写真は、いくつかの想い出の写真とともに、棺の中に納めました。
「最高傑作」となった、父の遺影
私は写真家という職業柄、自分の写真を「良く撮れた」などとは思わないようにしています。
私たちはプロである以上、良い写真を提供するのは当然の責務であり、撮影のたびに満足していているようではいけません。
もっと良い撮り方はなかっただろうか、違うアプローチはなかっただろうか、セレクトは適切だったか…そう考えなければ務まらない仕事であると思っています。
ですが、あの一枚だけは、迷いなく言えます。
あれは、私の最高傑作のひとつです。
父のまっすぐな人柄がにじみ出たその写真は、遺影となり、今も私たち家族を支えてくれています。
あのとき、きちんと撮っておいて本当に良かった。そう思える一枚です。
これからも伝えていきたい「写真の力」
家族の写真は、ただの記録でもなく、芸術でもありません。
それは家族が「生きてきた証」であり、「大切な人との絆」を映すものです。
そして、生前遺影は死の準備のためのものではなく、その人がどう生きてきたかを残す一枚。人生の尊厳となるものです。
私はこれからもそうした写真の力を信じ、この仕事に打ち込んでいきます。
そして、写真でひとを幸せにし、写真の力を大勢の人に伝えていきたい、そう思っています。
投稿者プロフィール
- プロモーションオフィス リバーシ 代表
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フォトグラファー(フォトマスターEX)・ビデオグラファー・終活カウンセラー1級・ITパスポート
立教大学卒業後、広告代理店・リゾート勤務を経て2008年独立
宣材写真・ビジネスプロフィール写真・婚活写真など日常的な人物写真のスタジオワークをメインに活躍中
ミスコン・ミセスジャパン、ダンス・音楽イベントなどの公式撮影、各種オーディションの撮影経験豊富
会社勤めの経験も豊富。就活のアドバイスやビジネス向けのパーソナルブランディング、映像・写真・WEBを活用した視覚的な広告・営業戦略が得意です。出張撮影、映像制作、ホームページ制作おまかせください
終活カウンセラーとして「終活サポート ワンモア」を主宰。異業種提携による終活のお手伝いの傍ら終活講座やカルチャー教室などミドル~シニア世代向けのイベントを企画開催しています
日光国際音楽祭® 公式カメラマン
ミセスジャパン2020栃木選考会公式フォトグラファーほか
終活サポート ワンモア主宰
終活カウンセラー1級
エンディングノートセミナー講師養成講座修了(終活カウンセラー協会®)
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